74.昭和村見聞記(28)No.271 TSさんの話
 昭和村に釣りに出かけるようになって,何年か過ぎた頃,TSさんと出会った。
 ある日のこと。
 いつものように,中島屋旅館で昼寝をしていると,突然夕立がやってきた。
 夕立の後は,イワナが釣れる。
 私は,飛び起きて,釣り場まで車を走らせた。
 釣り場に着いても,激しい雨が降っていた。
 私は,車の中で,雨がやむのをじっと待っていた。
 そのとき,「雨がやむまで,うちで休んでいきなよ。」と声をかけてくれたのが,TSさんだった。
 
 野尻川沿いに居を構えるTSさん。
 そのイントネーションからも,地元の方ではないのがわかる。
 釣りの好きなTSさんは,奥さんとともに東京から越してきたばかりだそうだ。
 第二の人生を田舎で暮らすという羨ましい方だ。
 お茶をご馳走になりながら,釣りの話をお聞きした。
 部屋には,釣り大会のトロフィーがたくさん並んでいる。
 釣りの腕は相当なものらしい。
 釣り談義で盛り上がっているうちに雨は上がった。
 川を覗いてみると,昼間の渓相とは打って変わって,黄土色の濁流になっていた。
 これではとても竿は出せない。
 ガッカリしている私にTSさんは,「オモリをうんと重くして沈めてごらん。釣れるから。」とアドバイス。
 半信半疑,竿を出してみると,尺近いイワナが釣れる釣れる。入れ食い状態になった。
 「泳がしちゃダメだよ。一気に抜かないと,他のイワナが散っちゃうよ。」
 TSさんの釣り講習会だ。
 「TSさんは,釣らないの?」と私が聞くと,「いつでも釣れるから。」との羨ましい言葉。
 そんな出会いがあってから,昭和村に行くと必ずTSさんの家に立ち寄るようになった。
 立ち寄るたびに,いろいろな釣り情報を知らせてくれる。
 野尻川のどこがいいとか,他にもこんな沢があるとか,どこそこで東京の釣り人が何匹釣ったとか,何センチ釣ったとか,とにかく詳しく教えてくれる。
 TSさんは,釣りの腕がプロ級なだけでなく,会津の川も知り尽くしているようだ。
 何度か一緒に出かけようと誘われたのだが,結局,ご一緒したのは一度だけ。
 いいポイントがあるというので,教えてもらった場所に行くと掛かってくるのはハヤばかり。
 後から様子を見に来たTSさん。「その流し方じゃダメなんだ。ちょっと竿を貸してごらん。」そう言うと,一振り。ヤマメを釣り上げた。
 さすがプロは違う。
 釣りの腕はプロ級,会津の川を知り尽くしている,そんなTSさんだが,なかなか釣りには行けないらしい。
 夏は農業,冬はスキー場で仕事をしているTSさん。集落の行事や冠婚葬祭など,田舎暮らしもそうそうのんびりしたものではないらしい。
 いつの頃からか,会うたびに「この家,買わない?」と聞かれるようになった。
 私は当然,冗談だと思っていた。買いたいけれど,お金もない。
 そして,2008年,4月。
 いつものように野尻川のほとりでTSさんにお会いした。
 「今度,引っ越すことになったから。今度は鮎が釣れるところ。」
 こんな素敵なところに住んでいるのに,なぜ?と思い尋ねると,「冬,雪が多くてね。」との返事。
 昭和村釣行の楽しみが一つ減ってしまった。
 とても,淋しい気持ちになった。
 野尻川のほとりにTSさんはいない。

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